愛の対極にあるのは憎しみではない。無関心である。
美の対極にあるのは醜さではない。無関心である。
知の対極にあるのは無知ではない。それもまた無関心てある。
平和の対極にあるのは戦争ではない。無関心である。
生の対極にあるのは死ではない。無関心、生と死に対する無関心である。
출처: http://ac-net.org/dgh/00101-mukanshin.html
愛の対極にあるのは憎しみではない。無関心である。美の対極にあるのは醜さではない。無関心である。知の対極にあるのは無知ではない。それもまた無関心てある。平和の対極にあるのは戦争ではない。無関心である。生の対極にあるのは死ではない。無関心、生と死に対する無関心である。
文芸春秋2000年1月号p214--217 ふたつの世界大戦を超えて
20世紀は「暴力の世紀」だった。日本の友にこれだけは伝えたい。エリ・ヴィーゼル(作家)
1928年、シゲツト(現ルーマニア)生まれ。第2次世界大戦中、アウシユビッツ強制収容所へ送られ、両親と親族の大半を失う。ソルボンヌ大学を経て新聞記者となり、56年アメリ力に渡って、58年「夜」でフランス語作家としてデビユー。ホロコーストを奇跡的に生き残った体験を作品を通じて伝える傍ら、人種差別反対運動の先頭に立ち、86年ノーベル平和責を受賞した。
古い伝説---
ひとりの旅人がその地方髄一の深い森で道に迷った。何時間ものあいだ、出口を探すが見つからない。ひとつの手かがりも、ひとつの道しるべも、どこにもなにもない。タ闇が落ち、旅人は恐怖に駆られる。次々と悪夢にうなされる落ち着かぬ夜。夜明け、旅人は飛び起きる。人間の姿を見かけたのだ。感謝のしるしに持ち物すべてをあたえるつもりで、旅人はその男に駆け寄る。「ありがとう、ここにいてくれてありがとう。神があなたを遣わされたのです。さあ、森の出口を教えてください」。しかし、男は頭を振って言う。「あなたと同じように、わたしもここで道に迷ったのです」。それから、憂いに満ちた微笑を浮かべ、自分の後ろの小道を指さす画「わたしがあなたにお教えできるのはただひとつ。この道をいくなということ。わたしはそちらからきたのです」
これが、あす、誕生しようとしている21世紀にわたしたちが伝えるべきメッセージなのだろうか?
わたしたちが別れを告げつつある世紀を、アメリカのユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントは、いみじくも史上「もっとも暴力的な」世紀と呼んだ。これほど多くの死者を、これほど多くの幻想を埋葬した世紀はほかにはない。
ふたつの全体主義的イデオロギー、ふたつの世界大戦、数多くの内戦と地域紛争、政治的次元の、人種的次元の、経済的次元の対立、国民的規模の屈辱、狂信的粛清と人種浄化‐‐そしてこれら惨事の向こうに、これらを超えたところに、これらとは比較にならぬほどの、ヒロシマの巨大な悲劇とアウシュヴィッツという名の絶対悪…。
いけない。もはや過去にもどってはならない。それは、人間の愚かしい権力奪取、ユダヤ人排斥・外国人排斥的性格を有する数々の試行錯誤、壮大な試み--そこに必然する論理は苦悩と死へと帰結する--を再開することによって、人間の破壊的な卑しき情熱を称揚する以外になんの役にも立たない。いかなる領域においても、神のものであろうと人間のものであろうといかなる権威のもとでも、目的は手段を正当化しない。人間は決してひとつの手段ではない。
あすの人間は、この生死にかかわる重要な教訓、つまり人間が生きること、そしてその生にひとつの意味をあたえることを助けるはずの教訓を学びとるだろうか?あすの人間の幸福はわたしたちの幸福よりも真であり、より確実に継続するだろうか?その希望はより純粋であり、より真であり、他人の希望を犠牲にすることはないだろうか?
1945年、逆説的ではあるが、わたしたちは楽観主義者だった。わたしたちは考えた。廃虚と灰とにおおわれ、手足をもがれ、喪の悲しみに沈む人類は、ついにその行動の基本原則を理解した、と。それは人類の倫理的広がり、言いかえれば人間とその同胞との関係に内在する。学者たちに自らの責任を自覚させるには、ヒロシマの名を口にするだけで充分だろう。愛と友情に渇く男や女が、自分たちの周囲いたるところにある憎しみを沈黙させるには、アウシュヴィッツの夜を染める炎のことをもち出すだけで充分だろう。そうすれば、どこかで重大な過ちが、不幸な逸脱が犯されたという重苦しい感覚が、わたしたちの-なかに生まれるだろう、とわたしたちは考えたのである。わたしたちはあまりにも無邪気だったのか?人間を信頼したのは間違いだったのか?人間は死を、その犠牲者たちに忠実でいることによって克服できるだろうと主張したのは間違いだったのか?
すべての胸張り裂ける悲しみ
半世紀後のいまもなお、複数の大陸において、貧困が、飢餓が、無知が、不寛容が、踏みにじられた無垢が、不治の病が、疫病が、祖国追放が、離散家族が、腹を空かせた子供たちが、疲れ切った老人たちが、大量殺戮が、戦争(1945年以降に70以上の戦争)が存在する。これらすべての胸張り裂ける悲しみをどう説明すればよいのか?そしてそれらに対する無関心を?想像力の不足、あるいは過剰の結果なのか?おそらくは記憶の?終末論的大団円、文明の終焉、つまり人類の終焉への幻惑?歴史に墓をうがちながら歴史を通り過ぎ続けている、あのさまざまな貌をもつ殺戮の狂気をどう説明すればよいのか?
だが、しかしながら。物理科学、テクノロジー、コミュニケーション、医学の諸分野で、人間の精神は多くの奇蹟を成し遂げた。驚くべき発見がなされた。人間は宇宙空間を歩き、銀河系を数え、大胆にも宇宙の年齢を計測し、平和のために原子を破壊する。同時に、個体の段階では心臓と脳の機能を観察し、それを保護する‐-つまり、寿命を延長する。しかし……ひとたびこの目的が達せられると、人はもはやそれをどうしたらよいのかわからない。老人は唐突に地位を追われる。若さのもつ活力と美とに完全に魅了され、それだけに関心をもつ社会から拒否されて、老人は自らを役立たずと感じる。よけいなものだ、と。
このどこに正義がある?そして、思いやりの心が?
とは言うものの、真実を尊重して、次のことを銘記しておこう。いま終わろうとしている20世紀はまた、偉大なる高揚と光の瞬間をも経験してきたのである。
今世紀の前半はファシズムとナチズムの敗北を、後半はソヴィエト共産主義の敗北を目撃した。植民地主義と帝国主義はもはや存在しない。強制収客所(グラーグ)はその扉を閉じ、アパルトヘイトはその力を失った。たしかに、いまでも狂信的な人種差別主義者はいる。しかし、人種差別はもはやおおやけには許容されない。それは実に、かつては法であった場所においてさえ、いまや違法である。人権闘争は、とくに若者たちにとって、世俗的な世界宗教のようなものとなった。難民のための病院で、祖国を失った人びとの収容所で、傷つけられた人類が救いと連帯とを緊急に必要としている場所いたるところで、わたしたちは若者と出会う。
無関心と闘うことが至上命令
これは、無関心に対する闘争が決定的勝利をおさめたことを意味するのだろうか?防衛手段をもたぬ者たちにとって、無関心はもはや脅威を表してはいてはいないことを?残念ながら、答えはノンてある。無関心に対する闘争はいまでもひとつの桃戦であり続ける。それは日々わたしたちに訴えかける。そして、新たなる世紀が民族と民族との歩み寄りを追求するとき、この闘争こそがその主導権を握らねばならない。
ユダヤ人としてわたしが後ろ盾とする聖書の伝統は、わたしたちに神はその被造物とは決して隔たっていないと教えている。神は神であるがゆえに、無関心をのぞいたすべてである。神は神であり、人間はその被造物であるがゆえに、人間は無関心をのぞいたすべてとなりうる。
ユダヤの律法や教義の注解を集めた書、タルムードの断章の多くはその美しさゆえに感動せずには読めないが、そこには、人間の探求と生命における神の積極的な関わりが描かれている。神は人間の苦悩に心動かされるのと同様に、その願望にも心動かされる。神は人間の祈りに耳を傾け、その夢に入り込む。
エルサレムの神殿が破壊されるとき、神は涙を流す。その涙のひと粒ひと粒が、わたしたちの涙とまざりあう。神は国を追われた自らの子たちのあとを追う。その子たちと同じように、わたしたちのだれとも同じように、神は解放を待つ。その解放は全世界的なものとなるだろうし、また全世界的なものでしかありえない。そして神が人間の苦悩に心動かされるのと同様に、人間もまた神の苦しみに対して、そしてまた、いやそれ以上に、同胞の苦しみに対して心動かされるところを示さねばならない。これは、人間どうしの関係において、悪に対する無関心は善の敵であることを意味する。なぜならば無関心は、人間の尊厳を指し示し、深めうるものすべての敵だからである。極端な場合には、無関心はその主体と対象とを蝕む。無関心の虜となった者は、もはや外側の世界も、内面の宇宙も見ることがないだろう。もはやなにも目にはしないだろう。そうなれば、無関心はただ罪であるばかりでなく、罰ともなる。他人の死に対する無関心は、遅かれ早かれわたしたちを自分の死にも無関心とするだろう。どんな共同体でも、その共同体の窮乏と苦痛とに無関心であろうとすれば、しまいには自分たちの共同体のそれにも心動かされなくなるだろう。生者の無関心は、その人間の耳と口をふさぐ。つまりその人間を、よき驚きであれ、それほどよくない驚きであれ、存在の驚きに対して閉ざされたものとする。
だからこそ無関心と闘うことが絶対的な至上命令となる--わたしたちの内部で、そしてわたしたちの周囲で。わたしたちのなかのある者にとって、これは一瞬たりとも忘れえぬ一種の脅迫概念となった。どこでもわたしの話に喜んで耳を傾けてくださる人びとのいるところで、わたしが何年も前から繰り返してきたことを、ここで言ってもよいだろうか?愛の対極にあるのは憎しみではない。無関心である。美の対極にあるのは醜さではない。無関心である。知の対極にあるのは無知ではない。それもまた無関心てある。平和の対極にあるのは戦争ではない。無関心である。生の対極にあるのは死ではない。無関心、生と死に対する無関心である。
無関心とどう闘えばいいのか。わたしたちは教育によって無関心と戦い、思いやる心によって、そのカをそぐ。もっとも効果的な治療薬?それは記憶、いついかなるときでも記憶、である。
以上が、新たなる世紀の到来を--もしかしたら誕生するかもしれない新たなる人類の到来をも-‐ともに待ちながら、目撃者としてのわたし、ユダヤ人としてのわたしが、日本の友に伝えたいことである。わたしたちはすでに知っている。ひとつの民族が苦しむとき、他のすべての民族もそれに傷つくことを。そして、ひとつの危険がある共同体を脅かすとき、目標となっているのは他のすべての共同体であることを--だからこそ、もはや恐怖のなかではなく、苦悩や欠乏のなかでもなく、ごく単純に希望のなかで、たがいに歩み寄る時がきているのてはないだろうか?
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