일본의 1인출판사 '이와타쇼인'(岩田書院) 이야기, 창업 21년째, 20년간 출판한 책이 825책. 월에 4-5책 출간.
たったひとりで出版社を立ち上げて20年。社長兼社員として編集から営業、販売までをひとりで担い、大手が作らない本を地道に出し続けてきた。時代がいかに変わろうとも、必要とされる本がある限り、ひとり出版社のフル稼働の日々は続く。
本の谷間に棲む
『ひとり出版社「岩田書院」の舞台裏』(無明舎出版)という本がある。それも1冊ではなくPart1からPart3まで3冊もある。ひとりでやっている出版社の社長が新刊を出すたびに新刊ニュースを作り、そこに「裏だより」というコラムを書き続け、それが3冊の本になった。今年で創業21年目。20年間でコツコツ出し続けた本は825冊、月に4冊から5冊、年間では50冊から60冊の新刊を出版し、年商は1億2000万円とか。出版不況と言われるご時世にひとりで達成したこの数字は衝撃的ですらある。
東京都世田谷区。静かな住宅街の相当に年季の入ったマンション内にあるという「岩田書院」に、社長兼ヒラ社員でもある岩田博を訪ねる。開きっぱなしの玄関ドアから中を覗いて、思わず絶句してしまった。靴を脱ぐわずか50センチ四方の先はどこまでも続く本の山で視界が遮られ、「どうぞ」という声はするが姿は見えない。どうしたら奥まで辿り着けるのか途方に暮れる。ところどころ低い山があって、そこを乗り越えながら進むしかないと覚悟を決め、本の山に突入する。どうやら原形は2Kの間取りらしいが、内部の構造が全くわからないほど本で覆い尽くされている。きっとここは廊下だったのだろう、ガス台だけが辛うじて見えるあの部分はキッチンか? うっかり手をつけば周囲の山から本雪崩が起きて埋まってしまう恐怖と戦いながら、障害物競走のような気分で進んで、やっと岩田を発見。毛糸の帽子に防寒ジャンパー。ほとんど外にいるのと同じいでたちで、猫の額も負けるわずかなスペースに座っていた。目の前は机のはずだが、本や資料に占領されて机上が消滅している。
「自分でもここに毎日うまく入り込むのは大変です。机の上も場所がなくなって、今は引き出しを開けてその上で仕事をしてます。コックピット状態ですね。ま、何とかパソコンは使えますから。冷暖房がないけど、冬でも8度以下にはならないし、夏もなぜか32度より上がらない」
笑いながら帽子を取った岩田は見事な丸刈りで、出版社社長というよりは僧侶のような風貌。年商の額から想像しがちなバイタリティーとか、ひとりですべてをこなすワンマン風とはほど遠い印象である。
「年商と年収を勘違いしちゃう人がいるんですよね。いまは編集作業を外注しているし、印刷や製本、倉庫の管理費など経費もかかるんで、年収にすれば食べていける程度ってことなんですけどね」
幾重にも雑然と積み上げられた本の山脈の奥には、本棚があり、そこにはこれまで岩田が出版してきた岩田書院の本が1冊ずつ揃っている。僅かに望める本棚の天辺には、薄茶色の函に入ったほぼ同じ装丁の本が並んでいて、岩田書院の歴史と学術書という重さが彼方の壁際から匂ってくる。しかし、よく見ると周辺にはあらゆるジャンルの膨大な本が積み重なっていて、どうやら大部分は岩田の個人的な所有物らしい。
「もうこれ以上は無理だと言いつつ、毎月本を買い込んでしまうんです。最初は整然としていたんですが、20年でこんなになってしまった」
ひとり出版社誕生
岩田がひとり出版社を立ち上げたのは1993年、44歳の時。それまでは名著出版という会社で編集の仕事に20年余り携わってきた。
「高校ぐらいから本は読むようになって、ま、本は好きでしたけど、特別に出版社を希望したわけじゃなくて。大学の先生に、名著出版が1人欲しいと言っているが行くか? と言われて、それじゃと入社したようなわけで」
名著出版では主に歴史書の編集を手掛け、自ら出版社を創立したのは20年後。独立するというのはやはりエネルギーのいることで、それを支える夢や希望があるはず。
「というか、私が入社した頃の創立オーナー社長が亡くなって、息子さんが新体制でやっていこうということになって、小舅みたいなのはいないほうがいいかなと思ったもんで。でも40歳過ぎて再就職は難しくて、自分でやるしかないってことで始めたんですよね」
誕生のきっかけもそんななりゆきだったのか……。でも、自身の名前を冠した社名に決意のほどが表れている……のではないか。
「いや、主義主張もないし、気の利いた名前も思いつかなくて自分の名前になっちゃった。そうなると下は書店か書房か出版か書院かの選択だから。書店だと本屋さんと間違われそうだし、出版は当たり前過ぎるかな。で、書院に落ち着いた」
とりあえず社長になった。だが、次は一緒に仕事をする社員の確保という道をとらず、その後ずっと社長ひとりのままというのも、人がいなかったからとか面倒だったからというなりゆきなのか。ついそんな予想を立てたが、またも予想は外れた。
「仕事に関しては、20年やってきたことだから、民俗関係や歴史関係の専門書が何年でどのくらい売れて、ひとりなら食べていけるという予測は立てられる。前は小さな会社だったから、編集の仕事をしながら経理も営業も見えていて、何となく流れはわかってました。自分は人を使えないってのもわかっていたから、最初から社員を入れるつもりはなかったんです。ひとりでできる範囲のことをやればいい。それ以上を求めると、売り上げのために本を作らなければならなくなるから」
この姿勢は、創立から20年間全く変わらなかったという。つい拡大の方向を模索してしまうものだから、強い信念が姿勢をブレさせなかったのだろうと思われる。
が、出版点数は当初は1カ月1冊のペースだったのが、現在は5倍にも拡大している。
「次から次へと仕事が来ちゃってね。本にしたいという出す側の事情や思いに応えていたらこうなった」
「岩田書院」という役割
岩田書院の本は、民俗学系か歴史の専門書がほとんどである。研究者がいて、研究結果を学会で発表し、雑誌に投稿し、何年分か論文がたまって本にまとめることで自分の研究を体系化できる。論文が本になってやっと非常勤講師として研究者の一歩目を踏み出せる。本を出すことは必要なことだが、一般的に売れるものではないし、余裕のない研究者には費用の負担が難しい。
「社員を抱えた大きな出版社では、最初から100万円用意するとか、100部買い取りが条件だったりして本が出せない。うちはひとりだから採算分岐点が低い。印税相当分の出来上がった本を差し上げることで、論文を本にすることができる。400部刷れば20部とかね」
400部? 世間では100万部を超えたと話題のベストセラーもあるが、研究書や専門書の発行部数は一体どのくらいなのか。
「発行部数は考えますね。少なければ1冊の単価は高くなる。だからといって多くしても、在庫を増やすだけで、倉庫を借りるのもコストがかかりますから。『野兎の民俗誌』って本を出しましたが、野兎の研究している人って少ないでしょうね。『摘田(つみた)稲作の民俗学的研究』っていわれても、いったい誰が買うのかって(笑)。教科書に使っても、学生が10人とかいう規模だったりする。でも“集団的自費出版”という言葉がありまして」
集団的自衛権ならぬ集団的自費出版とは、きっと個人的自費出版とは違うのだろう。
「専門書や学術書は多くても1000部から1500部くらい。10万人に1人だけれど、買う人は同じ分野の研究をしている人で、研究や参考のために必要な本であり、読者は次の著者でもあるわけ。同じ村の人が出した本を同じ村の人が買うということで回っていくから集団的自費出版。同業者の造語なのですが、核心をついていると思いますね」
この集団に入ってしまうと、研究者も出版社も仕事が回って、継続と進化が遂げられるというわけだ。集団に入るための最初の一歩のハードルをひとり出版社は低くすることで依頼が増えていった結果、年間60冊という予想以上の点数になり、岩田の日々は高速回転しなければ回らなくなったという流れのようである。
「これだけ出せるとは思っていなかったんですけどね。でも600万円の年収を得ようとした時にね、1年6冊しか出せなかったら1冊で100万円の利益を出さなければいけない。これは極めて難しい。ほとんど不可能。でも60冊出せば、1冊につき10万円の利益を出せば達成できる」
当初予測を超える出版点数になったことが、岩田書院が生き延びる栄養になったわけだが、それは予想を超えた忙しい日々もまた岩田にもたらすことになる。年末年始も土曜日曜も、昼も夜もない生活。
「ひとりの限界がありますよね。月に4冊も5冊もすべて自分だけでというのはさすがに無理だから、制作過程や在庫管理を外注にしました」
何でも自分でやるという方向と何でも自分でやらないと気がすまない性分を転換するにはさぞかし苦労したのではないかと思うが、岩田はクールにスパッと割り切っているように見える。それでもまだ、1年365日、コンビニ並みと岩田自身が言う毎日が続いている。
「さすがに深夜営業は少なくなってきましたね。前は午前3時頃帰って朝7時には起きてましたけど、今は午前1時頃には帰るかな。自宅から20分ぐらいなので歩いて来ています。家族旅行なんて行った覚えはないですねえ。集中して仕事して休みもしっかり取るというタイプじゃない。スイッチをずっとオンにした状態にしていたほうがいい。一度切ってしまうと立ち上げるのに手間がかかるし。電気もつけっ放しにしておいたほうがつけたり消したりするより消費電力が少なくてすむといいますよね」
浮世の楽しみとは無縁と言いながら、けっこう楽しそうにも見える。
「ひとりだと対人関係のストレスがないから」
その他の仕事がらみのストレスは、新刊ニュースの「裏だより」で吐き出し、3冊目の本になった頃には、愚痴を通り越して毒づくまでになっているとか。春と秋に集中する学会シーズンには、毎週末、学会の開催地を行商に飛び回る。
「みんな買う気で来ている人たちの集まりですからね。大きな学会だと2日で100万円とか売れるし、これも気分いいですよ。でも、売れない学会は、全く売れない」
概ね購買層が把握できる専門書でも、時には思いがけないヒットが出ることもある。
人間が死んでから骨になるまでの9段階を図にした仏教的な無常観の漂う『九相図(くそうず)資料集成』という8900円の本が3刷まで版を重ねた。日本人の死生観に関する歴史研究書『死者のゆくえ』も新聞の書評欄で取り上げられて4刷を記録した。
「こういうのがたまに出るから売れない本も出せますけど、欲をかいてはいけない。そう売れるもんじゃないと身に沁(し)みついていますから」
仕事場の書棚には創業時からの書籍が並ぶ。ずっと変わらないシンプルな装丁は、書店でかえって目を引くという
休みもなく、趣味もなく、ひたすら仕事の20年の日々を支えるのは何かとよく聞かれると言う。それは誰もが自分には決してできないことと思っているからだろう。
「出版文化を守るためなんて言えればいいんでしょうけどね。そんなんじゃないし。人に頼まれて、本を出して喜ばれて、食べていける。だから続けられるんでしょうね。今一番怖いのは、私が突然倒れることです。どこに何があるか私ですらわからないんだから、ほかの人がわかるわけない。お金すら引き出せない。ひとりでやっているということはそういうことです。後継者がいなければそれで終わりです。息子は親父のようになりたくないと思ったのか公務員になっちゃいました。そういえば岩田書院という出版社があったよね、で十分」
70歳までしかやらないと周囲に触れ回っているようだが、本を作らなくなった岩田は想像しにくい。というより、全く想像できない。近くの喫茶店で一服して、閉所恐怖症の人なら1分たりとも我慢できない椅子1つぶんの仕事場に戻っていく岩田の足取りは軽い。本に埋もれた空間が岩田の人生そのものであり、一番心が落ち着く場所なのだろう。
(写真:赤城耕一)
(写真:赤城耕一)
岩田 博(いわた ひろし)
1949年、東京都出身。大学で日本史を学び、卒業後、出版社勤務を経て93年に岩田書院を創業。以来ひとりで会社を切り盛りし、現在までに歴史、民俗学の専門書を中心に800点以上を出版。
1949年、東京都出身。大学で日本史を学び、卒業後、出版社勤務を経て93年に岩田書院を創業。以来ひとりで会社を切り盛りし、現在までに歴史、民俗学の専門書を中心に800点以上を出版。
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