教育と政治の間で揺れる教科書
パオロ・ビアンキーニ
トリノ大学教授(教育史専攻)
訳:上原秀一
今日のような教科書は、ヨーロッパで義務教育が普及した19世紀に登場した。このとき、教科書は、政治指導者の関心が集中する対象となった。政府は、形成を目指す市民像に合致した教科書を求めたからである。これに伴い、19世紀半ば以降、教科書を専門とする出版社が登場することとなる。その後、20世紀後半には、教科書市場における生存競争が激化し、出版社が淘汰された。その結果、教科書専門の巨大グループ企業が欧米諸国に生まれ、それらが多国籍企業化した。こうしたグループ企業は、教科書の技術的な側面にもっぱら関心を寄せる傾向にあり、教科書の中で重視すべき人間像が問われることはもはや無くなってしまった。国家にとって最も重要な市民形成という学校の使命には、教科書は役に立たなくなってきた。[日本語版編集部]
教科書の普及
現代の我々が思い描くような教科書は、19世紀初頭に登場したものである。ヨーロッパ諸国が学校を通じた教育の普及に専心していた時期のことだ。それまでは、学習に使う書物は、学習を目的として考え出されたものとは限らなかった。そして、市民は、教室の長椅子ではなく教会の長椅子で教育を受けていた。教理問答書や宗教書、そして余計な費用のかからない選集がすべて、年齢層の広い生徒たちに読み書きの神秘に触れる手段を与えていた。
教科書は、明らかに学校で使用するために考え出されたものである。したがって、教師の直接的・間接的な助けを得ながら教室で用いられるために考え出されたのである。こうした使用のためには、著者は、学習の漸進性や生徒の年齢・知力を考慮に入れなければならない。逆に、それ以前の教育書は、不特定の読者を対象とするものであった。
学校が誕生する以前には、貧富を問わず大多数の子供は、教理問答書によって読み方を覚えていた。これは偶然ではない。教理問答書には二重の利点があったからである。つまり、まず、問いと答えの連続を成す簡単な言葉によってアルファベットを子供に教えることができた。それと同時に、敬虔なキリスト教徒となり従順な臣民となるために必要な教えを、子供の未熟な精神に吹き込むことができたのである。
教科書の価値がヨーロッパで認められるようになるのには、時間がかかった。義務教育が普及し、それに伴って詳細で入念な教育内容の基準が確立することによって、教科書が国民各層に次第に広がっていったのである。「教科書が存在するためにはいくつかの条件が整わなければならないが、フランス革命以前にすべての条件がそろうことはなかった。同じ教育を受ける学級集団(一斉授業)、個別の教科における教育内容の有機的関連づけ、生徒一人一人が教科書を所有することといった条件である(注1)」。教育史家のアラン・ショパンは、フランスの場合についてこのように述べる。
新しい学校が構想される必要があった。まず政府が、次に世論が、自分たちが持つ原理原則と理想とを若い世代に伝達する仕事を学校に託し、神聖とも言える価値を学校に与えなければならなかった。教育は、フランス革命期には権利と考えられていたが、その後、義務と考えられるようになり、それによって一層の注意が払われる対象となった。公権力はすぐに、教科書を、学校が価値を伝達するための主要な媒体と見なすようになった。それゆえ、政府は、常に気を配って、教科書を自らの管理下に置こうとした。教科書の内容について規則を定め、時には検閲も行い、自ら直接制作に携わることもあったのである。
政治指導者の関心
最も念入りに作られた最良の教科書でも、ある種の単純化に頼らざるを得ない。これは、教科書の重大な欠点でもあり、主要な特色でもある。以前と同じく今日でも、教科書の内容の選択と提示には偏りが見られる。歴史や地理などの文科系教科全般において、その時々の政治的利害の論理に適った選択が行われているのである。例えば、イエズス会士ジャン=ニコラ・ロリケが著した有名な教科書『フランス史』は、ナポレオンに対する見方を時の政権の立場に応じて何度も変化させている。1814年以前の版では、ナポレオンは、「国土を血と廃墟と恐怖で覆っていた暴君からフランスを解放し、国内の軋轢を鎮め、外敵を追い払」った「武勲の誉れ高き名将軍」として描かれていた。ワーテルローの戦いの後には、この歴史はいくぶん異なったものに変わった。ナポレオン将軍は、今や「新たなアッティラ(注2)」とされた。「猛烈な野心に囚われていたナポレオンは、神の思し召しによりかつての勇気を取り戻して連合した敗戦国民によって打倒された。彼は神の手によって打ち負かされ、滅んでいなくなったのである」と説明されるようになった。このような例はいくらでもある。
経済協力開発機構(OECD)加盟諸国の国民を全体としてみた場合、その約29%が義務教育までしか教育を受けていない。その結果、この3割近くの人々は、世界に関する知識(国内史、世界史、地理、国の仕組みなど)を教科書のみから得ているということになり、テレビやインターネット、家庭での会話などもたいていの場合は不完全な形でしかこれを補うことができていない。OECD以外の国々では事態はもっと深刻だ。エジプト政府は、2010年の調査で、9割近くの家庭が教科書以外の書物を所有していないことを明らかにした。
義務教育学校と教科書は、すべての者に基礎的な教育を与えているのだから、その役割を十分に果たしていると見ることもできるかも知れない。しかしながら、この種の教育は、二つの大きな問題を引き起こす。一つは、教えたことがすぐに忘れられてしまうということである。産業国家の新たな損害と見なされることになる「非識字への回帰」(学校外や学校卒業後の練習不足により読み書きを忘れてしまうこと)を生じさせるのである。もう一つは、断片的な知識や先入観、神話などを凝固させてしまうということである。こうした虚偽は取り除くのが困難である。
ヨーロッパにおける学校教育の大衆化は、国によって時期は異なるが、だいたい19世紀中頃に起こった。何よりもこの大衆化を背景として、教科書は、政治指導者の関心が集中する対象となり、また教育家やさらには出版業者までをも引き寄せることとなった。知識人や教員たちは、先生と生徒の要求に応えるために、新しい教育方法と新しい教育用具を提示した。政府は、形成を目指す市民像――というよりも臣民像――に合致した教育内容基準を作り上げることに専念した。そして、市販される教科書をしっかりとふるいに掛けて、その内容を検閲しようとした。教科書の内容は、危険なものとなる可能性もあるし、少なくとも政府の要求に合致していない可能性があるからである。今も昔も、とりわけ非民主的な体制では、厳正な監督下で作成された同一の書物を全員に課すための細心の注意が払われているのである。
学校関連出版社の誕生
最後に出版社にとって見ると、学校は、理論上は無尽蔵とも言える巨大な市場であって、大きな可能性を与えてくれるものである。教科書の改訂が強く求められる一方、それに応えるのは比較的容易であるからである。実際、教科書は、典型的な消耗品である。教科書の寿命は、他の学用品の寿命よりもかろうじて長いくらいである。教科書は、1年そこそこしか使われず、頻繁に改訂されるので価値ある物とは見なされていない。小説や随筆のように大切に扱われて保管されることもない。「古書市場」に転売されるか、あるいは慈善団体が集めて発展途上国に送ることになる。発展途上国では古い教科書で勉強させても特に問題はないと考えられているということだ。その上、必要不可欠とは言えない改訂も頻繁に行われ、また、書き込み式の問題が掲載されていることもあり、新品購入が促され、中古市場は活性化しない。
実際のところ、教科書にとって最も重大な変化は、おそらくは制作と販売の領域において起こった。以前は、教科書は、古くなりすぎて使えなくなるまで、何十年にもわたって販売され続けていた。教科書は、印刷業者にとって高いコストのかかるものではなかったし、技術的な点でも他の種類の書籍に比べて難しいものではなかった。聖務日課書や小説に使われないような特別な図像や特殊活字は使われていなかったからである。
こうしたことが原因となって、教科書の大部分が専門出版社の担当するものではなかった。19世紀半ばになると極めて専門性の高い出版社が何社か登場することになるが、元々の教科書市場には、写植業者、印刷業者、書籍商、小規模出版社が数多く参入していた。こうした業者は、何世紀にもわたって、自らの収支を改善するのに便利な各種の書籍部門の一つとして、教科書市場を利用していた。現代の業者にも言えることだが、これらの教科書関連業者が学校に関心を寄せたのは、教育的・文化的な出版方針を持っていたからではない。重要なのは、地域の取引先の要求に応えることであった。すなわち、高校教師の講義録を出版したり、修道院が経営する寄宿学校で何十年にもわたって使い続けられてきた書物を何度も何度も重版したりするということと同じだったのである。少なくとも第二次世界大戦が終わるまでの間は、教科書市場の骨格を成していたのは、たまたま教科書を扱っているというだけのこうした業者であった。
しかし、1840・50年代以降、教育書専門とまでは言えなくとも、少なくともこれを優先的に取り扱うような出版社が登場することになる。文化的で教育的なそしてさらには政治的な出版方針を持った出版社である。こうして、学校関連出版社が誕生した。企業としての性格を完全に持ちながらも、より野心的な文化や出版の振興に率先して取り組む出版社である(フランスのラルース社とデュノ社、イギリスのマクミラン社である)。学校関連出版社は、権威ある執筆者や著名な教育家、教科書作成の専門技能を有する教員などとの間で特権的な関係を築こうとしたが、そればかりではなく、教職団体や師範学校など影響力のある関連団体とも同様の特別な関係を持とうとした。このため、学校関連出版社は、教科書出版の他にも様々な学校関連業務を行うようになった。教員向けや学生向けの定期刊行物や年報類の印刷、黒板や長椅子、掲示板などの学校備品の製造、書店の経営、文化行事や教育行事の開催といった関連業務に学校関連出版社の業務が広がっていった。
教科書会社の大企業化
教科書市場の成長が鈍ったのは、20世紀最後の数十年の間のことである。それまで教科書市場は、参入すれば誰でも儲かる確実な収入源であったのに、この時期以降は、すさまじい生存競争にさらされることとなったからである。その結果、出版社は淘汰され、最も強く最も専門的なものが生き残ることとなった。
最近では、教育書や学校図書に特化した出版社を複数統合して大企業が誕生するという状況が見られるようになった。例えば、フランスではアシェット・エデュカシオン社、アルバン・ミシェル社、エディティス社を挙げることができ、ドイツではシュプリンガー社とフェアラークスグルッペ・ゲオルグフォンホルツブリンク社を、イギリスではマクミラン・パブリッシング・グループ社を、イタリアではディアゴスティーニ社、エドゥモンレモニエール社、リッツォーリ社を、スペインではサンティラーナプリザ社とプラネタ社(エディティス社などの親会社)を挙げることができる。これらのグループ企業は、歴史のある出版社を徐々に吸収してきた。歴史のある出版社は、資本では大企業に太刀打ちできなかったが、市場では威信を保っていた。このため、これらの出版社のブランドロゴは、合併後も品質の証として守られることとなった。アシェット社は、デュノ社やアルマン・コラン社、ラルース社などの商標の付いた書籍を出版し続け、エディティス社は、ナタン社のブランドの威信を利用し続けている。
学校は、旨みのある市場である。フランスの学校市場は、年間3,500万部以上の印刷・販売に相当する規模であり、金額にしておよそ3億ユーロに上る。そして、この数字は、インドやブラジル、中国などの市場が成長すれば相対的に小さなものとなっていく見込みである。これらの国々では、経済のみならず教育も拡大しており、それは生徒数億人規模の市場に相当するからである。したがって、上に挙げた巨大グループ企業のほとんどすべてが、ヨーロッパの出版社に加えて、新興国の出版社をも大急ぎで手に入れようとしているのを見ても、驚く人はいないだろう。自社の製品を輸出したり、現地国政府の要望により良く応えたりするために必要なのである。それと平行して、これまで教科書を輸入するだけだった国々でも、最近では、似たような戦略が講じられるようになってきた。例えば、ブラジルでは、ブラジル教育出版所(IBEP)やサライヴァ社、アブリル社といった国内グループ企業が、外国資本の参加も得て、海外のグループ企業と競合するようになってきたのである。
グループ企業の中には、金融会社が経営しているものもいくつかある。グループ企業は、複数の大陸で同時に仕事をするために、数多くのブランドと持株会社を使っていて、その系列の網の目をたどるのは不可能に近い。これは、教科書のグローバル化の最も新しい局面であり、学校全体のグローバル化と軌を一にしている。学校のグローバル化は、実際には、植民地化とキリスト教の布教によって開始された。西洋に固有の教育方法のモデルが世界全体に広められたのである。というのも、植民地は、数世紀にわたって、「本国」の古典文学を輸入し、またそれだけでなく教科書も同じように輸入していたからである。植民地が独立してからも、ヨーロッパの出版社に依存する状態が続いた。教科書が画一化し、学校関連出版市場において地球規模の企業集中が起こっている。それが意味するのは、文化の弱体化である。
しかし他にもまだ未解決の課題が残っている。そのうちの一つは、近い将来の人類に関わる特に緊要なものなのに、忘れられてしまいがちな課題である。それは、教科書の教育上の目的である。教育制度全体の目的とまったく同様に重要な課題である。今日では、政府の教育指針との整合性、マルチメディア補助教材の充実度、コストなどに注意が払われており、学校が重視すべき人間像が問われることはもはやない。
教育の中心的な使命であるはずのものを果たそうとするとき、結局は教科書があまり役立たないということが明らかになる。国家はこの使命に最大の関心を払っているにも拘わらずである。その使命とは、市民の形成である。実際、これは逆説ではない。著作者、出版社、教師そして政府(少なくとも民主国家の政府)といった教育部門の関係者はみな、教科の内容や教育内容の基準、教育の方法、そしてマーケッティングに対してもっぱら努力を捧げている。これに伴う最も明白な帰結は、公民教育の教科書が、今日の子供達の目から見て昔の子供達にとっての祈祷書よりも高い価値を持っているとは言い難いということである。教科書は、買うけれど滅多に開かないのである。学校への信頼が徐々に揺らいでいる今日の時代においては、教科書を授与する儀式は、新しい学年の開始を意味しているのではなく、消費社会に納める年貢のようなものを意味しているのではないだろうか。
注
(1) Alain Choppin, «Le manuel scolaire, une fausse évidence historique», Histoire de l’éducation, n° 117, Paris, janvier-mars 2008.
(2)アッティラ(Attila, ?-453)は、フン族の王としてゲルマン諸族を征服し、中央ヨーロッパを支配するが、カタラウヌム平原の戦いで西ローマ・西ゴート連合軍に敗れた。[訳注]
(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2013年9月号)
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