2017년 10월 24일 화요일

니혼코도카이/일본홍도회/日本弘道会(ニホンコウドウカイ)와 부산광역시립시민도서관

부산광역시립시민도서관연혁에 "1901년 10월 10월 홍도회 부산지부에 독서구락부 도서실 개관'을 제일 첫머리에 써 놓았다.

-----------------------------------------------------------------------------------------
'홍도회'는 日本弘道会(ニホンコウドウカイ)을 말한다. '니혼코도카이'는 어떤 단체인가.

일본의 世界大百科事典 第2版의 해설에는 明治時代の国家主義的教化団体。前身は西村茂樹が設立した修身学社で、日本講道会を経て明治20年(1887)日本弘道会と改称機関誌「弘道」を刊行して修身道徳教育を主張した。(메이지시대의 민족주의적 교화단체 . 전신은 니시무라 시게키가 설립한 수신학사로 일본강도회를 거쳐 메이지 20년(1887)  니혼코도카이로 개칭 . 기관지「코도」를 간행하고 수신 도덕 교육을 주장했다.)

또한  日本大百科全書의 해설에는 

日本弘道会
にほんこうどうかい

明治時代設立の教化団体。1887年(明治20)9月、日本講道会を改称してできたもの。前身の日本講道会(1884年結成)も、西村茂樹(しげき)が1876年に道徳振興を唱えて設立した東京修身学社に発する。機関誌『弘道会雑誌』を刊行し、国家主義道徳を主張した。西村の「日本弘道会ノ改称ニ付キテ一言ス」をみれば、道徳を卑しむ風潮を嘆き、道徳の根基を定め、「人心ヲ正シ邪説ヲ遏(とど)メ、以(もっ)テ国基ヲ鞏固(きょうこ)ニセント欲ス」とある。ただし道徳の内容については、日本固有の教えはなく、東洋や西洋からとらざるをえないとし、東西の道徳の長所を吸収することを主張している。[松永昌三]
메이지 시대 설립된 교화단체. 1887년(메이지 20) 9월 일본강도회를 개칭하여 생긴 것. 전신 일본강도회(1884년 결성)도 니시무라 시게키가 1876년에 도덕 진흥을 주창하며 설립한 도쿄 수신학사에서 시작한다. 기관지 「코도카이잡지」를 간행, 국가주의 도덕을 주장했다. 니시무라의  "니혼코도카이의 개칭에 붙이는 말"을 보면 도덕을 멸시하는 풍조를 한탄하면서 도덕의 근기를 정하고 "人心ヲ正シ邪説ヲ遏(とど)メ、以(もっ)テ国基ヲ鞏固(きょうこ)ニセント欲ス "라고 하고 있다. 그러나 도덕의 내용은 일본 고유의 가르침이 아니라 동양과 서양에서 유래할 수밖에 없다며 동서 도덕의 장점을 흡수하는 것을 주장하고있다. [마쓰나가 쇼조]

【道徳教育】より

…それは和漢の歴史から材料をとった儒教主義にもとづく修身書であった。また,一時期文部省の編集局長をつとめた《日本道徳論》の著者西村茂樹は,1876年におこした修身学社を87年に日本弘道会と改め,皇室中心主義の国民道徳普及につとめた。このような政府の施策やそれを支持する民間の運動により,欧米風の自由主義道徳やプロテスタントの倫理の教育は一部の私立学校にとどまった。…

   [도덕교육]에서

... 그것은 일본과 중국의 역사에서 소재를 취한 유교주의에 기초한 수신서였다. 또한 한때 문부성의 편집국장을 맡았던 <일본도덕론>의 저자 니시무라 시게키는 1876년에 일으킨 수신학사를 1887년에 니혼코도카이로 고쳐 황실중심주의의 국민 도덕 보급에 노력했다. 이 같은 정부의 시책과 그것을 지지하는 민간 운동으로 유럽풍의 자유주의 도덕과 개신교의 윤리 교육은 일부 사립 학교에 그쳤다. ...
------------------------------------------------------------------------------------
니시무라 시게키는 어떤 사람인가

西村 茂樹(にしむら しげき、1828年4月26日文政11年3月13日) - 1902年明治35年)8月18日)は明治時代日本啓蒙思想家教育者文学博士。道徳振興団体「日本弘道会」創設者。泊翁
佐倉藩支藩であった佐野藩堀田家に仕える西村芳郁の子として、江戸の佐野藩邸に生まれる。通称は平八郎、名は芳在、後に茂樹と改めた。
十歳で佐倉藩の藩校である成徳書院(現在の千葉県立佐倉高等学校の前身)に入り、が招いた安井息軒から儒学を学んだ。
1853年(嘉永6年)、ペリー艦隊の来航に衝撃を受け佐倉藩主の堀田正睦に意見書を提出し、老中阿部正弘にも海防策を献じた。堀田正睦へは、積極的に海外へ進出して貿易を行うべきであると意見書を提出している。1856年(安政3年)、堀田正睦が老中首座・外国事務取扱となると、貿易取調御用掛に任じられ、外交上の機密文書を担当。
1873年(明治6年)に、福澤諭吉森有礼西周中村正直加藤弘之らと明六社を結成。また漢字廃止論者として1874年には『開化ノ度ニ因テ改文字ヲ発スベキノ論』を発表した。一方で1875年には、大槻磐渓依田學海平野重久らと、漢学者の集まりである洋々社を結成する。
東京学士会院会員、貴族院議員宮中顧問官をつとめた。また、文部省編輯局長として教科書の編集や教育制度の確立に尽力。修身の必要性を訴え、1876年に修身学社(現・社団法人日本弘道会)を創設した。
1879年に編纂が開始された日本最大にして唯一の官撰百科事典「古事類苑」は、西村茂樹の発案によるものであった。
1887年に、西村の主著として知られる『日本道徳論』を刊行した。当時、日本の近代教育制度が整備されつつあり、国民教育の根本精神が重要な問題としてさまざまな論者によって議論されるようになっていた[1]西村は、首相・伊藤博文をはじめとする極端な欧化主義的風潮を憂慮し、日本道徳の再建の方途として、伝統的な儒教を基本としてこれに西洋の精密な学理を結合させるべきと説き[2]、国家の根本は制度や法津よりも国民の道徳観念にあるとし、勤勉・節倹・剛毅・忍耐・信義・進取・愛国心・天皇奉戴の8条を国民像の指針として提示した[3]。文部大臣の森有礼はこれを読んで大いに賛成したが、伊藤首相は新政を誹謗するものとして怒り、文部大臣を詰責した[4]

댓글 없음:

댓글 쓰기